インフルエンザダイエット。

娘がインフルにかかった という話をしたわずか1日後にスも罹患。二人してぐったりしていた。

 

そしてスと言えば40過ぎてから、風邪など引いたらそのまま咳喘息に移行する身体になってしまっており。今回も当然のように咳喘息様がいらして。今もしんどい。なぜ長引くのか。体力をつけてきていても喉には関係ないということか? 喉を鍛えるってどうやればいいのだろう。

 

数ヶ月前から腹筋など自宅トレーニングなど黙々とやっていたのだが、インフル騒ぎと咳喘息のしんどさからちっともやれなくなった。咳出るのよ。スクワットくらいはできるようになってきたが。

で。トレーニング開始から現在までの間に約8kg体重が落ちた。寧ろ超えられそうになかった壁をインフルと喘息のおかげでさっくり超えた。ダイエット成功。

 

昨日娘さんが読んでた本:最近喉いわしてるので母が読んであげられていない。でもひとりでさらさら読むようになっている。これは学校の司書先生が「あなたなら読めるわよ」と薦めてくれて借りてきた本。母は富安陽子さん初見。降矢奈々さん大好き。

やまんば山のモッコたち (福音館創作童話シリーズ)

やまんば山のモッコたち (福音館創作童話シリーズ)

 

昨日一人でにやにやしながら読んだ本:ポール・エリュアールの「自由」とか。

フランス名詩選 (岩波文庫)

フランス名詩選 (岩波文庫)

 

自宅警備とインフルエンザ。

さて。2018秋から晴れて自宅警備員である。

 

春頃に娘の卵白アレルギーを少しずつ改善したいねぇとなったので、アレルギー科を受診したのだが。そもそもアトピー持ちだし年中アレルギー性鼻炎で苦しそうなのである。さぞ花粉などワンダーな結果になるだろうと予想していたのだが。

 

おや。ハウスダストとダニ様に強い反応をお示しに。マックス。卵白よかひでぇ。

で、花粉はあまり関係ねぇ。目から鱗がばりばり落ちた。

2歳の時に、イヌネコ皮膚アレルギーで喘息発作入院をした経歴があるのでペット類が飼えない我が家なのだが。おうちで別のをたくさん飼ってた、と(ぎゃー)。

 

それまで細々とバイトしてたのだけど。40超えたあたりから仕事から帰って来たら1日終了となるくらい疲れてしまい、掃除などは休みの日にざっくりやる程度になっていた。そして娘はその間アレルゲンに感作されまくって鼻じゅるじゅるになってたと。

 

で。お家のお掃除がメインの仕事になったのだ。それでもあまりマメにやれてねぇけど。家で独りごちている時間が増えたせいであれこれ考えるようになった。

 

本日は娘が39度の熱を出し学校お休み。あまりにぐったり寝続けているため病院へ連れて行くのは夕方からにする。絶対インフルエンザ。ワクチン2回も接種したのにねぇ。

 

 

昨日一緒に読んだ本:なんか2年生になってからこのシリーズにおはまりの様子

マジック・ツリーハウス探険ガイド サメと肉食動物たち (マジック・ツリーハウス探険ガイド 12)

マジック・ツリーハウス探険ガイド サメと肉食動物たち (マジック・ツリーハウス探険ガイド 12)

 

 昨日一人でにやにやしながら読んだ本:もうね。国木田独歩が好きで(芥川は?)

きっと感想などは別の場所で喚くでしょう(何処)

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

 

 

引越し。覚醒。

はてなダイアリーからはてなブログへお引越し設定完了。テスト的に記録。

 

もう2019年で。

娘は無事小学生となっている。はええ。

スなどは娘の親として茫漠たる日々を無為に過ごし、このままでいいかと独りごちていたのだが。

 2018年の秋、立て続けに「実は好きだった」人が死去し。佐山さんとか片山さんとか前田さんとか。そういえば自分の母親が死んだのも59歳という若さで。

 

「あれっ時間ねぇな」

 

もうとっくに折り返し地点は越えているのである。このまま斜めに人生を見続けていても面白いことは一つもないのだと悟った。

 

 ちる氏と共に生活するようになった時、生来の癖である物事を斜めに見るところが少しはまっすぐになるのかしらと思っていたが、どうやら別の方向に曲がっていってしまったようである。

ひとりで好きなもんを好きなように考えられてたらそれでよかったという環境じゃなくなってから、一度関心を持つと自分の時間がそのもの達に取られてしまい(←過集中タイプ)、日常生活をまともに送ることができなくなるだろうという危機感を常に抱いていたため、できるだけ興味のないフリをしてやり過ごし、なんなら本当に興味を失ってしまったりもしていたのだが。

 

そう。これからは今まで見ないように背を向け続けてきた「きっと自分が『すごく好き』なものに違いない」もの達を素直に愛することに決めた。

覚醒してからは心身共に軽いのである。軽い。何故そんなに負荷をかけていたのかい?

 

良いとか好きとか可愛いとか面白いとか。ポジティブな感情をオープンにできる対象が「小さきものたち」(娘・子ども・小動物など)に限定されていたところを、これからはドーンと「好きなものは好き・愛している」と高らかに宣言し残りの人生を突っ走ることにしたんだぜベイベー(誰)。時間ねぇんだよ。

2016年のス。

ずいぶんとご無沙汰してますが。2016年は散々な一年だったのです。なんだろう厄年だから?(←年齢詐称)
もう思い出せないくらいいろいろあったのですよ。長文だよー。


結局2015年末2016年始には実家に帰省していた。なんか以前FBの方で行っとかなきゃいろいろやばい気がすると言ってたのですがまあ当たってしまったのである。比較的元気に日常生活を自立で過ごしていた父が3/3に亡くなった。寝込んでたとか、病気療養中だったとかではなく自宅で。あっという間に。
元旦に娘(当時年中さん)がじいちゃんの後ろでじいちゃん遊んでオーラを出しつつ謎の踊りを披露していた動画が最後の父の映像になってしまった(汗)。
介護とか全く必要のない優良老人であった。正月に帰れてよかった。もう少し帰れてたらよかった。


あとね。わたしの体調がもうね。やたら崩れてたのである。半年くらいマスクしっぱなしだった。
喉いわしたのをきっかけに咳喘息に移行したり(1ヶ月くらい夜中しんどいよ)。謎の尿道炎になったり(トイレ1週間くらい往復しっぱなしでしたよ)。ワクチン打ってたのにインフルA&B様に次々とかかったり(これには死ぬかとおもいましたよ)。「免疫力がむっちゃ落ちてるから、じいちゃんばあちゃん並に普段ならかからんでもいいもんにぜんぶひっかかっている」とのちる氏評。むっちゃ落ちた理由はなんだ? そういえばなんでこんなに疲れるのだろうたいしたこともしてねぇのにと日々疑問で。夏休み初盆で実家帰省中になにげにネットしてたらこれはと思うのを見つけた。


きっとわたしは聴覚過敏+聴覚情報処理障害者なんだねぇ(しみじみ)。いやこれで説明を自分でつけて納得しようと思ってるだけで、特にきちんとした機関で調べてもらって確定するつもりはない。確定したところで手帳がもらえるわけでもないだろうし、あーやっぱ? てなるだけで。物心ついた時からそうだったので人はそういうもんだと思っていたがどうも違った。


例えば街なかのざわざわしたとこで誰かと二人で会話してる場合、普通なら会話相手の声を無意識に選択して他の音は気にならないもしくは認識しないところ、わたしの場合は全部入ってくる。その場面をそのまま録音&再生したとしたら、「なんや余分な音もごっちゃごちゃに拾ってるから集音マイク使ってないと何話してるかわからんな」となるやつ。
聞こえすぎて困るのが余計な音。動画見ながら近所の「赤ちゃんお風呂あがるよ」の呼び出し音が聞こえるとか、なにかの家電のモーター音がうるさくて寝れないとか。
好きな音を集中的に聞いていると疲れない。ので、音楽や楽器を鳴らす場所が好き。街中に出る時は音楽必携。


あと、聞き間違いの王者である。突然今までと関係のない話を振られた時とか、自分のあまり知らない話される時とか、電話を受ける時とかはもう大変である。
目の前の人もしくは電話相手の言葉が聞き取れない&謎単語が想起されるのに慣れ過ぎていて、ほとんどの会話はその内容を踏まえて前後関係を考えて、今この人はきっとこう発言してると類推しながら言葉を返し続けるのを当たり前にやっている。対面時は特に、言葉に頼れないので相手の表情とか口の動きとか態度も全部総動員してそのひとを読むみたいな。電話ではどうしようもないのだが。でも、「他の人はあまりそんなことしてないよ」ということに気づいた。44にして(おっと)。まさに目からウロコである。
よう園保護者会で書記やれてんな とも思うが、上記の作業をやり慣れているのであまり間違いがない。日本語やし。
英語、ヒアリング苦手だったなぁ(遠い目)。なんでだろうと思ってたが。


ところが、自分に近しい人になればなるほど「後からよく考えたらこの話の内容からこの言葉はないわー」という単語をその場では脊髄反射のように出して聞き返してしまい周囲(主にちる氏と娘)にうんざりされている。
なんだろう。家では武装してないから?
弛緩&甘え。すみません。


で。「こういう人は1日の終わりには脳の疲労がでーじハンパないさ」とのこと。昔から昼まで寝ていないとダメな子だったが。
で。疲れが慢性化した理由が(もちろん加齢もあるが)赤ちゃん、こども、要介護だでこ先生などから出る「予測・制御不能音声多重放送」なのかなぁ、と思い至る。自宅でなにか映像を流しながら、家族がそれぞれ違うことを話しかけて来てる状況でガスファンヒーターの音が気になり、だでこ先生の突発的な鼻かみ音にびっくりするとか。こどもの声好きなんだがなぁ。。。夜泣きがひどかった頃は疲弊していたが。てかついこないだまで現役夜泣き娘だったしなぁ。
ひとり好きな音だけイヤホンで聞いて自分を閉じていればそれで済んだ時とは確実に違う環境。でもそらしゃーない。



というわけで工事現場のおっちゃんがしてるガチなやつ(イヤーマフ)をこないだ無意識で買っちゃったよ(夜中にアマゾン発注してて届いてびっくりしたよ)。でもそれしててもだでこ先生のごきげんな歌声が階下から聞こえるのは変わらないよ(狂)。




そんなこんなで。正体判明など実りある(えっ)1年だったが。先週金曜日に自転車単独走行中にこけた。左上腕大結節剥離、右第五中足骨剥離全治2ヶ月である。
集大成である。


呪われてる?


年末に地震雷火事だでこ先生とか厄災がないといいな。

ベトナム珍道中記

2006年1月のベトナム旅行記です。なんせ6年前のことなので、記憶もあいまいで訪問国の状況等も変化していることにご留意ください。


ベトナム珍道中記 其の壱 サイゴンはもうたくさんです。


ベトナム珍道中記 其の弐 とっととホイアンへ


ベトナム珍道中記 其の参 ミーソン遺跡へ


ベトナム珍道中記 其の四 ホイアンからフエへ


ベトナム珍道中記 其の五 DMZツアーに参加する


ベトナム珍道中記 其の六 フエからハノイへ

はにーむーんベトナム・ラオス珍道中記

もうだいぶと経ってしまったが、2010年1月にはにーむーんで訪れたベトナムハノイラオスルアンパバーン滞在記を、今さらですが残しておくことにしました。


というわけで、はにーむーんベトナムラオス珍道中記は以下の通りです。




其の壱 ベトナム初日。
其の弐 ベトナム二日目。
其の参 ベトナム三日目→ルアンパバーン。
其の四 ルアンパバーン二日目。
其の五 ルアンパバーン三日目。
其の六 ルアンパバーン四日目→バンコク。
其の七 バンコク→一瞬マニラ→帰国。(2011年11月1日更新)

そして国立競技場へ。

高校時代。正直ろくな思い出がない。学区内では間違いなく一番アホな学校で、部活動も剣道部以外はろくな成績もなく。今回国立にサッカー部を導いた松本監督はまだ久御山中学校の教諭だった。久御山中学はその頃サッカー強豪校だったが久御山高校はサッカーサークル状態で、久御山中学のサッカー選手は皆、他の強豪高校に進学していた。18年前に彼らが進学した山城高校は、国立競技場に駒を進めたが、決勝で三浦淳宏永井篤志を擁する国見に負けた。


その3年後、全国大会で成績を残した久御山中学は、そのメンバーを引きつれ松本監督と共に久御山高校に進んだ。


てめえの卒業した高校はアホな高校だった。今回準決勝のPK戦でにこにこ笑っていた彼らを見て、アホな伝統は変わっていないと確信したが、それは間違いだった。彼らは天真爛漫だった。サッカーを未だ続けられると言う喜びに浸っていたのだろう。やっぱりスポーツは楽しくてなんぼだと強く実感した。



富士山を激写。まともに取れたのはこの一枚のみで、この後富士山は雲に覆われた。



12時過ぎに国立競技場に到着。すでに人の波が。



もちろんこちら側を選択。



すでにコーナー付近しか空きはなく。



てめえのようにひっそりと応援に来た卒業生が、この中にも沢山いたに違いない。




入場行進。


結果はご存知のとおり。正直1−4になった時はもう帰ろうかとも思ったが、怒涛のゴールで3−4に追い上げたときには一瞬奇跡を信じてしまった。いやあ良い夢を見ました。


数列前に座っていた兄さんは1人でじっと観戦していたが、ゴール決まるたびに立ち上がり、両手を広げ空に向かって吼えていた。彼もきっと卒業生なのだろう。



表彰を終えて降りてくる滝川二のイレブンに、笑顔で拍手を送る選手たち。




電光掲示板に日本選抜の選手が掲示される。久御山の選手の名前が出るたびに、彼らは大喜びしていた。



表彰式が終わり、滝川二校の応援スタンドの前で滝川二イレブンが勝利報告をしているときに、久御山イレブンが走り寄って二校入り乱れてバンザイしていた。



国立競技場から見えたラーメン屋






ラーメンを食べ終えると、前の道をフェラーリが走り去って行った。