出産。高校サッカー。

「街中がお地蔵様に囲まれている、と気がついたのは、あらためてこの洛中に住んでからのことだ。京の通り通りの中に、ひっそりと、お地蔵様は街を見守っている。家を出て通りを歩くと、霰交じりの雪が降る道は空気ごとしんと冷え切って、ただ自分のぱりぱりと地を踏みしめる音だけがいつまでも聴こえていた。」


昨年末、無事ぷりんと子供が産まれました(と言いつつ、実はプチ南山もとい難産でした)。夜泣きも激しいが、今のところすくすくと育ってくれており嬉しい限り。健康こそが一番です。可哀想な事にパーツは父似ですが、輪郭は朝潮太郎です。


ところで本日の高校サッカー準決勝。公立で唯一勝ち残っている久御山が素晴らしいサッカーを見せ、GKの奇跡的なセーブもありなんと決勝戦に勝ち進みました。本当に素晴らしいです。今日は自宅で子供と一緒にTV観戦しましたが、PK戦の最中でもにこにこ笑っていた君たちは素晴らしかった。純粋な高校生の涙も心打たれるものですが、やっぱりスポーツは楽しくてなんぼかと。しかし本当のところ、勝つとは思わなかった。感動しました。


実はこの久御山高校ですが、なんと我が母校なのです。決勝まで進んだからには、万難を排して国立競技場に応援に駆けつけたいところですが、やっぱり東京は遠い。弾丸国立観戦を考えましたが、さてどうしたものやら考え中。偶然だかなんだか知らんけど、この日はなんと珍しく完全オフの日。スはさらっと「行って来たら? 子供はみておくし」などと男前の発言をしてますが・・・。てめえの母校が全国大会の決勝に進むことなんて、今後はきっとないだろうな・・・。愛校心なんて1mmもないと思っていたのだが・・・。ごもごも。もごもご。

スの最近。

さて。すっかりちる氏の旅&京都つれづれ日記になっておりますが。
スです。
妊婦です。


いやー。カウントダウンですわ。もういつ出てきても不思議ではない状態で。
せめてちる氏が在宅中に産気づいてほしいものです。よろしく腹の子。



いま腹の子からお返事あり。←会話すると中から腹をぼくっと蹴るのです



いろいろと。いろいろとありすぎて自分のことなのについてけない感で
いっぱいだったのですが最近ようやく落ち着いてきました。


昨年夏。九州旅行前後から表出し始めたダデコ先生の諸問題により
同居困難となり秋からしばらくダデコ先生に入院していただいており。
で。腹をくくり。昨年末入籍し。
面倒見る人が不在となった状態でずっとうちにい続けるだけというのも
どうかと思いFPの資格などとってみたり(通信教育好き)。
今年4月からなんでかちる氏の職場で(事務)非常勤採用していただき。
働き始めて1週間で妊娠が判明。←びっくりだ
まさか子供が授かる身体だとは思ってもいなかったので大変驚き。
でも片方の卵巣がよくがんばった、と。さらに歳も歳なのでこれはもう
奇跡だと。ありがたくぜひ産ませていただこうということでクビ覚悟で
職場にご報告。
使い始めて1週間そこらのパートのおばちゃんに対して
産休をとってぜひ復帰してくれと言って下さる皆様に感謝です。
一切つわり等生じない健康体のまましばらく幸せに過ごしていたのですが。



ダデコ先生が投薬調整でなんとか問題が半解決くらいになる見込みとなり
再同居するための住居を構える必要が生じ。
マンション3Fとなるとエレベータがあってもいろんな問題が発生します。
集合住宅ですし。階段も昇降し放題で簡単に外へ出れちゃいますし。
中古住宅を購入&リフォームしました。ちる氏が清水の舞台から墜落です。
わしもばりばり働いて貢献していきたいものですが。
夏に引越し。


バリアフリーの間逆。完全バリアです。←なんだそら



ダデコ先生の障害者手帳。2冊とも最強の切り札となり。
福祉サービスをフル活用することで退院が可能となったため
屈強な男性ヘルパー達に面倒みていただきつつ1ヶ月弱一緒に過ごし。
スの出産にともない産前産後は再び入院していただいています。



で。今やっと産まれくる子と向き合い中。わしの入院準備もやっとできました。
カウントダウンなのですよ。いよいよ。
子供は京都が地元になるのか…。ぴんとこねぇなあ。

嵯峨塩館 其の二


朝食。上のほうに見えるお櫃に、炊き立ての白米が盛られており、もちろんお代わり自由。



コンロには鶏鍋も用意されていた。



宿の窓から外を眺める。



嵯峨塩館の正面から。



宿の横には川が流れている。露天風呂からの眺めも、だいたいこんな感じだった。



宿を出て、友人の眠る墓地へ。約1年ぶりの再会を済ませ、ワイングラス館に立ち寄りお土産を購入。

嵯峨塩館

年に1回、この時期に若くして旅立った友人に会いに、山梨へ行く。あれからもう何年になるだろうか。


沖縄から通っていたときは大変だった。土曜日の朝一番に家を出て、飛行機に乗り、羽田空港から都内に出るとそれだけでもう夜になっていた。翌日朝一番の特急で山梨に向かい、すぐに引き返して、なんとか最後の便で沖縄に帰っていた。そう考えると、京都からはまだ行きやすい。



京都駅に滑り込む特急しなの。これで一気に長野県まで行く。今回は列車の旅となった。



車内食用に購入した「かつくら」のひれカツサンド。車窓の風景を楽しみながら、サンドの下に見える、股間に挟んだビールで喉を潤す。原了郭の黒七味が付いていたのでかけてみたが、カツの風味を殺していたのでかけないほうが良かったな。





今回の宿は、例年通り嵯峨塩館。いつも宿泊する2階の部屋を予約して出かけた。2階へ上がる階段の天井には、美しい紅葉の模様があり、思わずじっと眺めてしまった。そういう絵画かなんかかと思ったが、これは自然に天井のガラス戸に葉がかかっているだけで、空が白いのでこんな写真になった。


宿に着いて、まずは湯を堪能する。ここの湯は鉱泉で、ボイラーで沸かした湯に入ることとなる。当日は雨が降っており、露天風呂には傘を頭に載せて入浴した。



階段を見下ろす。



お楽しみの食事タイム。


まずは先付け。この宿は山深くにあり、基本的に山のものしか出さないのだが、例外的に山梨名物の煮鮑が出ている。



この日に採れたキノコ類。右上にあるワイン豚と一緒に、鍋にして楽しむ。



うずらと、うずらの卵のワイン煮



こんにゃくの刺身。味噌だれに、好みで和がらしをつけていただく。



ヤマメ? の焼き物。



イチジクのスープ。やや疲れてきた舌に、程よい甘さが新たな刺激となり、さらに食欲が増す。献立の真ん中でこの変化球は嬉しい。



冬瓜とキノコのあんかけ



ワインを飲ませて育てたワイン牛の朴葉焼き



最後にうどん・茶碗蒸し・香の物・椀。左下はマツタケご飯で、お代わり自由だった。この時点で腹ははちきれそうだったが、もちろんお代わりする。もちろん別腹で、はち切れても後悔しないレベルの美味さだった。


右上にちらりと見えているのは甲州ワイン。美味しんぼでも描かれていたが、本当に甲州ワインは日本食とよく合うと思う。



そしてデザート。左上の山栗のアイスがこれまた絶品だった。


山の恵みをいただき、大満足。ひどい宿だと、山奥にもかかわらず痩せた海の刺身などが出てきてうんざりすることがあるが、この宿はそういったことは全くなく、山のもの直球勝負。食事は全て女将さんが作っているらしい。年に1回の贅沢を堪能した。

ここ二日の行動。

11/20


御所の一般公開をしているとのことで、昨日は珍しく朝早く起きて御所に向かった。自宅から御所はなかなか微妙な距離であり、タクシーで行くには近く、バスで行くには乗り換えもありややこしい。鉄道はない。というわけで、健康と美容も兼ねてとりあえず歩いていくこととした。まあ言うても3kmやしな。町並みを楽しみながら歩くわけだが、西陣の町並みは古きも新たしきも混在していて全く飽きない。


30分ほど歩いて御所に到着。御所の建築様式や、庭などに興味があったのだが、人大杉。まったく堪能できず。「通路が大変狭くなっております。立ち止まらずに歩いてください」との号令の元、ただひたすら黙々と歩いた。なんだこの修行は。次回機会があれば、平日に行ってやると固く決意。


御所を後にして、七味唐辛子を買いに長文屋へ。ここの七味は間違いなく世界一、至高の七味だ。店に入るとたちまち香りの世界に包まれる。調合も、こちらの好みにあわせ目の前で調合してくれる。


七味を購入した後は、ぶらぶら家に向かいつつ路地を散策していると、なぜか北野天満宮の中へ。簡単に参拝を済ませ、家へ。まだ昼になっていなかったので、近所のワラビ餅屋「茶洛」に寄る。まだ商品が残っていたので、購入。ここのわらび餅は絶品だが、作った瞬間からどんどん劣化が始まるので、作り立てを持ち帰り、即時に食べるのが正しい。というわけで、購入後まっすぐ家に帰り、茶も入れる時間を惜しんでたちまち開封し、口に入れた。至福の時間。


11/21


今日も朝から船岡山に登る。実は初めて登ったのだが、さすが標高100m足らず。階段を登れば即頂上だった。そのまま引き返して家に帰るのも芸がないので、ぶらぶら歩くこととした。


東側から船岡山を降り、そのまま東へ。大宮通で南に下る。しばらく歩くと「たんきり飴」の看板が見える。その怪しげな風貌に気圧されて今まで店に入ったことは無かったのだが、今回はふらっと寄ることとした。店の方に聞くと、痰きり飴は生姜が強めの辛口と生姜が弱めの普通のがあるらしい。痰きり飴以外にも、いろんな飴や菓子が売ってあり、普段使いのお菓子によさそうだ。というわけで、いくつかの飴や菓子を購入した。店を出て、さっそく購入したての痰きり飴を頬張ったが、生姜がよく効いておりなかなか美味。いわば「冷やしあめをそのまま飴に固めた感じ」だ。


ゴキゲンに飴を舐めながらそのまま寺の内通りを西に歩くと、西陣織工芸美術館を発見。前から気になっていたが、これまたふらりと寄ってみた。中に入るまで知らなかったが、今日は関西文化の日だとかで、特別に無料だった。なかなか良いところで、西陣織会館とは異なり「美術館」を標榜しているだけはあり、西陣織の美を堪能した。


京都には通算して30年以上住んでいることになるが、洛中に住むまで全く知らなかったことが多いことに驚く。今更ながら気が付いたが、京都とは「職人の町である」という事だ。よく本などでも「京都に3代以上住んでいる家は、実は少ない」などと書いてあるが、それは洛外のことだ。自分も洛中以外の京都には長く住んでいたが、確かに3代遡ればみな京都以外の出身のものばかりだった。


ただし洛中は違う。ここは本当に職人の町である。千年以上の長きに渡り、天皇家やその周りの貴族たちに使えるべく、様々な職人が育った。その多くは子々孫々と受け継がれてきた。これは本当にすごいことで、今も続いているところは、その間には使えない子供たちは育たなかったという事だ。そして脈々と受け継がれていく以上は、その地を動くことはない。こうして今も、洛中は職人の町であり続けるのだろうと思う。こういった視点は、ここに住まなければ永遠に気付くことは無かっただろう。沖縄にずっと住み続けていたらならば、京都とは「冬は寒く夏は暑い、とても住みにくいところ」くらいの意識で死んでいったに違いない。


その職人文化の最高傑作が御所だと思い、一般公開に足を運んだのだが人大杉だったな。さっきも書いたが。


そんな土地なので、七味唐辛子の専門店やわらび餅の専門店、たんきり飴屋などが普通に営業していたりする。なるほどなかなか奥深いではないか、面白いなあなどと考えつつ、今日も船岡温泉に向かった。

出汁にハマる。

帰京してから、自分で料理する機会が増えたこともあり、出汁にハマった。第二次出汁ブームである。


思えば初めて出汁にハマったのは高校を卒業してすぐの頃であった。三条京阪の近くに程よく萎びた乾物屋があり、そこで購入した鰹節があまりに旨かったため、気が付くと鰹箱まで購入し、枕崎の本枯れ節を有り金をはたいて購入し、毎日毎日がしがしとカツオをかいていた。休日には鰹をかく刃の調節を行い、日々鰹の香りに包まれていた。

話は脱線したが、それ以来の出汁ブームである。もちろん沖縄に住んでいたときも、市販の鰹節と昆布などで出汁をとっていたが、京都に帰ってから、特に昆布出汁の美味さに開眼した。


思えば、こっちに引越してすぐの頃だ。たまたま近所を散歩していると、そこに昆布専門店があった。中では上等な昆布や昆布製品も売っていたのだが、てめえが通りがかったときには、店頭で利尻昆布の切れ端が、無造作に紙袋に入れて売られていた。見るからに「昆布1年分」くらいの量があきれるほど安く売られていた。「今だけですわ」との店員の言葉につられ、その紙袋を一袋購入した。それだけでは申し訳ないと思い、店に入り昆布とサンショウの炊いたものも申し訳程度に購入した。


さっそく自宅に帰り、出汁をとってみた。さすが利尻、切れ端とはいえきれいに整形されて売られているものと、旨みはさほど変わらないはずで。瞬く間に我が家の出汁の主役になった。


出汁をとり役目を終えた昆布は、賽の目に切りネギをまぶして、沖縄特産のシークヮーサーポン酢で食べると堪らない。食べきれない分は、ひたひたの酒にみりんを少し入れ、しょうゆで味付けして水分が飛ぶまで鍋で焙りつける。焙りゴマをまぶすと日持ちもし、弁当のおかずにもなる一品となる。沖縄っぽくクーブイリチーにしてもよい。余ることなく始末する楽しみにハマっている今日この頃である。来月誕生する予定のわが子にもしっかり出汁をとる子になって欲しいと思う。

洛中に住む。

気が付くと、洛中に住んでいた。


「九州旅日記」を放置することしばし、この間には色んなことがあった。昨年12月には、ようやく年貢を納めることとなり、めでたくかつひっそりと入籍を行い(式は挙げず)、今年初めにはラオスにハニームーンに行き、その後ダデコ先生の介護問題に直面し、清水の舞台から墜落する勢いで自宅を購入しリフォームを行い、これまた気が付くと二人の愛の結晶が腹の中に宿り、なんと来月にはこの世にその姿を現す予定となっていた。書ききれないほどいろんなことがあった。そんなわけで、自宅を購入するときにはあまり気にしていなかったが、そこは洛中であった。


「洛中」。その定義は様々であるが、ここでは通りを中心として、古典的に定義することとする。つまり、北は鞍馬口通り、東は鴨川、西は天神川、南は九条通りである。いわゆる"old kyoto"だ。細かいことを言うときりがなく、北は北大路ではないかと言う意見もあるが、鞍馬口通りをはさんで明らかに雰囲気が変わっており、北は鞍馬口通りでいいだろう。東も、「祇園は鴨川より東だ」と言う意見もあろうが、祇園は洛中ではない。西と南に関しては、はっきり言ってどうでもよい。個人的には南は七条通り、西は西大路より向こうは京都ではないんだよね。


さて。そんな細かいことはどうでもよく、気が付くと、上記に記したエリアの中に自宅を購入していた。もちろん定年後も続く長いローンを組んでの購入(+リフォームローン涙)だが、そんなこともどうでも良い。購入したときには、「周りにはコンビニやスーパーがない」くらいにしか考えていなかったが、住んでみると実に魔界であった。


思い返せば、生まれたときは洛北であった。つまり洛中の北である。その後親の都合により徐々に南下を遂げ、ものごごろついたときには洛南の地で青春を過ごした。高校を卒業した後は洛東にある大学に通い、「憧れの地」沖縄に移住した後、ダデコ先生の介護問題で京都に帰って来たときには洛西の地に住居を定めた。つまり、京都に生まれ育ったのには違いないが、今まで「洛中」は全く縁がなかった。ここだけの話だが、実は洛中の友人も今までいなかった。まさに「謎の地」だったわけだ。噂によると、そこは魔界で、何百年も前から住み着いている住人が、日々式神を飛ばしているらしい。


コンビニやスーパーがないのも当然で、洛中は「分け入っても分け入ってもぎっしり家」状態なのだが、これに関してはまた別の機会に話を譲ることとしよう。


「京都人だけが知っている」を著した入江敦彦氏によると、「洛中に住むというのは、美味しいものに取り巻かれて暮らすという事だ。いや、五分ほども歩けば棒に当たるように銘店の二つや三つや十もなければ、そこは京都とはいえない」(京都人だけが食べている)ということを、実にひしひしと実感している今日この頃である。


例えば、歩いてすぐのところにある蕎麦の名店「かね井」。学生時代からちょくちょく通っていたが、今回近所さんという事で、その頻度は明らかに増大した。何も考えずに「美味い美味い」と通っていたが、気が付くとミシュランの星を獲得していた。のだが、出版されたミシュランガイドに店の写真が一切載っていなかった。という事は、あろうことにかミシュランガイドへの掲載を拒否したということらしい。それもまた京都らしい話なのだが、これもまた別の機会にしよう。


さて、そんなわけで魔界に住んでしまったわけだが、気が付くと猛暑一転寒い晩秋の季節になっていた。冷え切った身体を温めるのは別に自宅の浴槽でも十分なわけだが、たまには広い銭湯の湯で身体を温めたい。というわけで、今日はこれまた歩いてすぐのところにある銭湯で冷え切った身体を温めることとした。


支度をして銭湯に向かう。「船岡温泉」である。てめえが言うのもどうかと思うが、ここは日本一の銭湯である。その証拠と言っていいのかどうかわからないがなんとwikipediaにも一章が割かれており、銭湯の建物そのものが「国指定有形文化財」である。中には「日本初の電気風呂」「サウナ」「薬草風呂」「ヒノキの露天風呂」などあり、それでいて普通の銭湯料金で全てが楽しめる。京都市指定の銭湯回数券を握りしめ、今日も船岡温泉に向かった。ここはなぜか外人率が異常に高いが、どこぞの旅行ガイドブックにも載っているのだろう。


番台で回数券を渡し、湯に向かった。広々とした湯で一日の疲れを癒す。文化財に指定されているとのことだがそこは銭湯であり、温泉やスーパー銭湯では拒否されている刺青入りの方も、ほっこりと疲れを癒していた。てめえはヒノキの露天風呂に身体を沈め、まん丸なお月様を飽きずに眺めていた。